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Francoise Morechand

 

パリ、モンパルナス生まれ。ファッション・ジャーナリストの草分け的存在の一人。
近年では『VOGUE NIPPON』の創刊に貢献するなど、最新ファッションに携わる傍ら、ジュエリーデザ
インも手がける。
ポリシーは、「ファッションはただの衣服ではなく、生活環境のすべて」とし、
国際化問題や自然環境保護にも積極的に参加するなど幅広い活動を続けている。
そんなマダム・モレシャンが語るエレガンスとは・・・
まさにモナコはいろいろな国の人々が暮らす国際的な場所であり
エレガントライフスタイルの成功の例です。

フランソワーズ・モレシャンの新刊を購入する

 
エレガンスの10の条件 フランソワーズ・モレシャン エレガンスは私の人生で、もっとも大切な要素というか、憧れであり目的なのに、なぜか『エレガンス』を日本語で語ると気になることがあります。日本語の『エレガンス』はフランス語のニュアンスと少し違うようなのです。
日本の辞書を引くと、『優雅』『上品』『気品』という単語が並んでいます。もちろん翻訳として間違いないのでしょうが、この言葉だけでは『お上品で気取っている』というマイナスのニュアンスを感じてしまいませんか。しかも、皇族とか伝統社会とか「超VIPな社会に生まれ育たないとムリだわ!」と思って、諦めていませんか。さらに『優雅で上品で気品があって』という形容は外観の雰囲気や物腰だけを表現しているようで、私には何か物足りなく思えるのです。
ちなみにフランス語の辞書(GRAND LAROUSSE)でEleganceを引くと、次のように説明されています。
『外見や内面において、優雅さ(la grace) や自然な余裕(l'aisance) によって特徴づけられる資質。例えば、服飾や身振りや住居のエレガンス』 『特に装いにおいて、余裕と控え目(discretion)を伴う着こなしのセンスの良さ。「エレガンスは人を驚かせないことである」(ジャン・コクトー)』 そして最後に、『道徳的に(moralement)、または知的に(intellectuellement)特徴づけられる人の資質』とあります。
つまり、エレガンスはシックな装いをして、おしとやかで、お上品といったイメージだけではありません。おしゃれが自分を表現する手段であるように、エレガンスは人の内面から生まれてくるライフ・スタイルであり、人生や精神のあり方。『優雅』『上品』『気品』に加えて、『粋(いき)』『スマート』『さりげなさ』『慎み(控え目)』『余裕』『思いやり』『尊厳』『敬意』『わびさび』『勇気』『優しさ』『愛情』…もっともっとたくさんの好きな言葉が、このエレガンスに集約されているのです。私にとってエレガンスは『人間である条件』だと思えます。
このエレガンスの条件を十あげよ、という今回の課題は最初は簡単に考えていたのですが、いざ実際に書こうとすると大変な苦労です。『エレガンスって何?』と友だちに聞いても返ってくる答えは千差万別。
人の話を聞けば聞くほど、私にはエレガンスが何なのか分からなくなってしまいます…。
さらに十年前にインタビューしたことのあるデザイナーのジバンシー氏の言葉を思い出してしまったのです。ちょうどオードリー・ヘップバーンの話をしていた時に彼はこう言ったのです。
『エレガンスとは本来の自分であり続けること』 ヘップバーンは私が若い頃から『エレガンスの化身』として憧れ続けてきた人です。でも、『本来の自分』がオードリーのようにエレガントでなければ、どうすればいいのよ! ジバンシーさん! もう八つ当たりの気分です。
パリのファッション・ブティックのオーナーで私の友人、マリア・ルイザは、『誰もがエレガントになりたいと願っているけど、世の中にはエレガンスを持っている人と持ちたいと願っている人の二種類しかいないわ』と言ってました。ああ、私は後者の人間なのね…、と、絶望的気分。
原稿の締め切りが近づくにつれて、髪をセットする時間もなく、朝から着替える時間もなくパジャマのままでデスクに向かい、昼食はキッチンで立ったままサラダやスープを慌てて口にかきこんで、猫に食事を与えることも忘れ、苛々しながら…まったくエレガンスとは程遠い生活になってしまいました。
と、ここまで書いたときに私は反省も含めてエレガンスの第一条件を思いつきました。
①努力や苦労を人に見せないこと。
原稿の苦労を書いてしまった私はエレガンスの失格者ですが、私の尊敬する友人でデザイナーのクリスチャン・ラクロワ氏はエレガンスって何?という問いにこう答えてくれました。
『エレガンスは病気とか離婚とか事故とか破産とか愛する人の死とか…様々な苦しい経験を経ても、それを全く見せずに、今までなんの苦労もしなかったように見せる人』 確かにいます。『私はこれだけ苦労をしてきたのだ』と自慢する人や、または辛い経験によって、優しさや思いやりの余裕を失った人。このことは日常的なおしゃれやテーブルセッティングでも、同じことが言えます。ブランド物で身を固め、さらにあらゆる流行を取り入れたファッションは、おしゃれへの努力が見えすぎて逆効果。自宅のパーティでも、『今日のお料理は今朝、早くから用意して大変だったのよ』と言ってしまっては逆にゲストの心の負担になってしまいます。
さて、私も苦労を見せずに原稿の続きをすらすらと書くことにしましょう。エレガンスの第二条。
②人に媚びない。自分の尊厳を保つ。勇気を持つ。
よくフランス人はプライドが高いと言われます。確かに自分の反省も含めて、プライドと尊大を勘違いしている人も多いかと思いますが、たぶん、この悪評(?)はエレガンスの条件である『尊厳』というコインの裏表。
私の母はピレネー山脈に近い大田舎の農家の出身ですが、小さい頃に病弱で、パリの叔母のもとに引き取られて育ちました。決して裕福な家ではなかったのですが、女性に学問は要らないと言われていた時代に、しかも女性が芸術家になるなどとんでもない時代に、苦労してパリのボザール(美術大学)に入り、画家となり、学校で美術教師をしていました。
戦争中、パリがドイツ軍に占領されたことは『プライドの高い』フランス人にとって、大変な屈辱でした。多くのフランス人が身の危険を承知でレジスタンス運動に加わっていたのですが(もちろん、一方では多くのフランス人がドイツ軍に協力もしていたのですが)、私の父や母も例外ではありませんでした。私の父は一度、ゲシュタポに連行されて拷問され、戦後、後遺症で視力を失ってしまいました。ですから、今でも『拷問』と聞くだけで恐怖心で眠れなくなるのですが、この両親から学んだ『尊厳』が、精神的エレガンスの基本だと考えています。
ドイツ軍の占領中、私の母や多くの女性が物資不足にもかかわらず、努力をしておしゃれをしました。それはドイツ軍に媚を売るためでなく、自分たちは惨めじゃないと胸を張り、『負けてはいません』という意思を見せる『おしゃれレジスタンス』だったのです。ストッキングもない時代、素足に墨で線を引きストッキングをはいているように見せたり、新聞紙を裏地にしたコートを作ったり、古着を縫い合わせてブラウスを作ったり、木靴に厚紙をかぶせてハイヒールを作ったり、すべて手作りのファッションでパリジェンヌの意地を見せていたのです。欠乏は創造の母。
その頃、街でフランスのトリコロールの国旗を掲揚したり、国歌の『ラ・マルセイエーズ』を歌うことはドイツ軍によって禁止されていました。母は友だちと青白赤の三色を取り入れたおしゃれをしたり、または帽子(もちろん紙製の手作り)の飾りに楽譜の五線紙を巻きつけたりして、ささやかな抵抗をしていたのです。もちろん五線紙には『ラ・マルセイエーズ』のメロディが書かれているのですが。

③エレガンスはお金の問題ではない。
確かにエレガンスは裕福で伝統的な旧家の子女に育つ方が身につきやすいものです。教育を受ける機会もなく、ただ生活に追われるだけの環境ではエレガンスを身につけることが難しいのも悲しいことに現実でしょう。エレガンスには最低限の心と生活の余裕が必要かも。
でも、私の母が戦争中に手作りのおしゃれをしていたように、物質的に経済的に恵まれているがために、創造的精神が失われることもあるのです。裕福であればおしゃれはより簡単でしょう。でも、お金を出せば誰にでも出来るおしゃれはエレガンスではありません。
ココ・シャネルの有名なエピソードがあります。ある大富豪のマダムが人目を引くほどの宝石を身に付けていましたが、シャネルは彼女にこう言ったのです。 『あなたほどの人なら(誰もがお金持ちとして知っているので)、このような高価なアクセサリーなんて身に付けなくても、イミテーションで十分じゃないですか』 確かに生まれてから苦労を知らない人は人に対して、余計な見栄を張る必要がないので、いつもさりげないおしゃれで自然にエレガントな風情というか、雰囲気が身についています。でも、それはあくまでも見た感じだけのエレガンスであって、その人の心までが、本当にエレガンスかどうかということは分かりません。往々にして苦労を知らないで育っている人は人の痛みに鈍感なこともありますから。
いくら経済的な余裕があっても、ブランド品をたくさん持っていればエレガントと勘違いしないでください。自分が毎日、働いてやっと夢に見たブランド品を買うという女性の夢は私にも十分理解出来ますが、それはフランス語でいうペッシェ・ミニョン(可愛い罪)ぐらいに考えておかないと度が過ぎたおしゃれは下品になってしまいます。 お金を使うことよりも、頭を使うこと。これがエレガンスの勉強だと思います。たくさんのファッション雑誌の写真ばかりに目を通して、流行をそのまま真似をするのも危険です。流行のエッセンスを上手に取り入れるのがベスト、そのためには流行の背後にある歴史や文化を知っておかなければなりません。

④自分を磨くこと、自分を知ること。文化と教養を身につけること。

いくらおしゃれをして、お金を使って高価なブランドを身につけて、エレガンスを演出しても、話す言葉が乱暴で、頭の中は空っぽではメッキがすぐに剥がれてしまいます。心のエレガンスを養うには毎日の勉強が大切。勉強といっても、学校で学ぶ勉強でも学歴でもありません。
みなさんはパリコレクションのニュースを見る時に、今年の流行は何色とか、ミニスカートの流行が復活したとか、様々な情報を得ているでしょう。私も、仕事柄、またファッション大好き人間ですから、この何十年とパリコレクションには必ず通っています。でも、あの華やかなファッション界でも、才能あるデザイナーはデザインの才能とセンスだけでなく、幅広い教養と文化を身につけています。中世のゴシック風、またはイスラム文化、オペラ、バレエ、世界の民俗…様々な文化がファッションのデザインとして生かされています。それが時代の空気となって、流行が作られていくのです。そういう文化を知っていておしゃれしているのか、単に雑誌で見たのを真似しているのか、その微妙な違いがエレガンスがあるかないかの違いとなって見えてきます。 私は今でも、毎朝、起きるとコーヒーを飲みながら新聞や雑誌のスクラップをしています。自分が興味のあること、または知っておかないといけないことを切り取って、時間のあるときに新幹線の中で、タクシーの中で、寝る前に読むのです。それは努力ですが、決して辛いことではありません。自分が興味のあることなので、趣味といえるかも。私は学生時代に勉強が好きだったわけではありませんが、好奇心と向上心(母親に褒められたい)が私を支えてきました。私のスクラップ作業はきっと死ぬまで続くでしょうね。時々、この年になって何のため?と疑問に思うときもありますが、それは私がいつも胸を張って人と楽しい会話をして、最後まで生きていきたいからなのかもしれません。

⑤人への思いやり、人間への思いやり。

おしゃれに気を遣い、きちんとした身なりをすることは社会的なルールだけでなく、どんな場所でも人生の中でも『相手に対する思いやりと敬意』です。 日本でもフランスでも、最近の若い人や、またメディア芸能関係の仕事をする人たちはラフな服装をすることがカッコイイと思って、きちんとしたレストランでもパーティでも、いつもジーンズにTシャツでやって来る人がいます。もちろん今の時代ですから、ネクタイをしろとか、ロングドレスをとは言いませんが、せめてストリート・ファッション風におしゃれをアレンジして欲しいです。そういう場所に来る時は、おしゃれやきちんとした服装が一緒に同じ場所で時間を過ごす人(それが例え見知らぬ人でも)への思いやりなのです。
中には『それが私のスタイルだ』と主張する人もいるでしょう。確かに、人と違う自分のスタイルを持つこともエレガンスの条件ではありますが、イマドキ、ヨレヨレのジーンズとTシャツが、ちょっと反体制精神のシンボルと考える人はかなり時代遅れと言わざるを得ないかも。単にだらしがないだけ。それとも人を不愉快にすることが挑発であるかのように考えるなら、これも少し幼稚でしょう。きつく言うなら、そういう場所にくるべきではありません。 思いやりといえば、私の尊敬する故ド・ゴール大統領の有名なエピソードがあります。エリゼ宮でアフリカの小国の大統領を招いて食事会が催された時、テーブルに出されたフィンガーボール(手を使わなくてはならない料理などが出たときに指を洗うためのシルバーの椀)の水を正式の晩餐会に慣れないアフリカの大統領が飲み水と思って飲んでしまったのです。それを見て、フランスの大臣たちは馬鹿にして目と目を互いに合わせクスクスと笑っていたのですが、ド・ゴール大統領はフィンガーボールを手に取ると、みんなの前で自分も堂々と飲んで見せたのです。もちろん慌てて大臣たちも同じようにフィンガーボールの水を飲んだそうです。

⑥おしとやかで、おとなしいだけがエレガンスではない。

晩餐会というと、これは日本の伝統的な美徳のせいかも知れませんが、大使館などでの夫婦同伴の食事会へ行くと、テーブルで最初から最後まで一言も喋らない『エレガントな奥様』がいます。時々、笑ってうなづくのですが、自分から会話を発展させたり、話題を提供することはまったくないのです。フランスでは逆に他の人の話を聞かないで、自分だけがずっと喋り続けるマダムもいますが、どちらも困ったもの。男性でも『無口ですから』、『シャイですから』と、さも、それが日本の美徳というような人もいます。でも、食事の終わる頃には自分が努力もしないで、ずるい!と私は思ってしまいます。楽しく人と会話する、これはパーティであれ、食事会であれ、コミュニケーションの基本です。控え目はエレガンスの要素でもありますが、過度の『控え目』は社交性の欠如というよりも、他人への思いやりの欠如のように思えます。 もし、その控え目が、実は家事と育児とおしゃれとテレビのワイドショーだけに時間を費やした結果、話す内容を持たないのが理由ならば…(④番に戻る)

⑦失敗はエレガンスの母。自分のスタイルを作る。 小さい時からの帝王学のようなものを授かっていない限り、エレガンスとは若い頃には完成されないでしょう。女性にとって、年齢はとても気になるものですが、三十歳、あるいは四十歳を過ぎてからの大人の女性の魅力として、エレガンスがあります。 ただ、若さの魅力に甘んじてしまっては気がつくとエレガンスとは程遠い、年をとっただけの女性になってしまいます。若さで補える時にこそ、たくさんの失敗を恐れずにしておくべきです。
特におしゃれの組み合わせ、コンビネーションを学ぶには時間がかかります。というのも、いくつかの原則はあっても、何が自分に似合うのか?ということはそれぞれの人によって違うからです。しかも自分が好きなスタイルや色なども違います。そして、その好きな色やスタイルが自分に似合うかどうかも一致しないので、問題は厄介です。さらに、流行が変わります。同じおしゃれをしても、古く見えたり、または古いものが斬新に見えたり(それがおしゃれの面白いところでもありますが)…。単に憧れのスターやファッション誌のモデルさんの物真似だけするのは、誤魔化しに過ぎなくて、いつか自分のスタイルとのズレにしっぺ返しを食ってしまいます。
私は前にも書いたように、長い間、オードリー・ヘップバーンを外見だけでなく生き方までも私のエレガンスの手本として憧れてきました。私も小さい頃にバレエを学んでいたし、若い頃にはとても痩せていたので(本当です)、オードリーと自分は似ていると信じていたのです。たくさんのファッションを真似していました。でも、二十歳を過ぎてしばらくすると、彼女に似合っても、自分に似合わないことも増えてくるのです。たくさんの失敗を経て、自分で考えて、さらに失敗をして、なんとなくわかってきたのが今かもしれませんね(もう遅すぎるかも)。良家の生まれでイギリスで育ちアメリカに渡ったアングロサクソン系のオードリーと違って、私の場合は知的ではあったが中流家庭に育ったパリジェンヌで、その後、日本にやってきた身。さらにラテン的で(私にはイタリアの血が入っています)、スラブ的(ポーランドの血も入っています)…。インテリアもそうですが、私の場合はミクスチャーとか、国境無き(ボーダレス)精神を生かしたエレガンスを目指しています。 自分のスタイルとはおしゃれだけでなく、自分の人生でもあるのです。


⑧自分を誇示したり、自己顕示しないこと。

この経済的にも大変な競争時代にこれは少し難しい問題です。 前述したココ・シャネルのエピソードのように、既に社会的な名声があったり、特別に経済的に恵まれた人や、有名な家柄に生まれた人は自分をことさら大きく見せたり、自分を誇示する必要はない訳ですが、いわゆる庶民にとっては、自分についてささやかで小さな自慢もしてみたいし、また仕事上、自分を大きく見せる必要もあるわけです。エレガンスが上流社会だけの特権のように考えられたり、また外見上だけの気取ったエレガンスの誤解が生まれるのも、実はこうした自己顕示の「下品さ」を上流社会が軽蔑する(このこと自体、思いやりがないという点でエレガンス失格なのですが)ことにあるのではないかと思います。
でも、私の経験から考えてみると、今の時代では恵まれた人も金銭欲がなくても、自己顕示欲には弱いようです。今はエレガントにしていたら損をする時代。多少、強引でも自分を売り込む時代。大学の先生でもメディアという武器を使って有名になれる、なりたがる時代。一方では渋谷の若者たちがスターを目指し、誰もが自己顕示欲を倍増させる時代。たぶん、そう言う私も決して例外ではないでしょう。 でも、どんなに時代が変わってもエレガンスの本質は変わりません。どんなに人生で損をしている人でも、私はエレガントな人が好き。

⑨人の悪口を言わないこと。

これは私の夫が結婚する時に私に突きつけた条件です。まあ、完全に守れないのですが、何とか心がけています。
私の夫がこう言うのは単に優しいからだけではありません。彼はフランス音楽の評論やプロデュースをしていて、ゲンスブールとかボリス・ヴィアンといった『インテリやくざ』風のアーチストが専門なので、無精ひげ姿で、ラフな服装ばかりでエレガンスといった言葉からは程遠いかもしれませんが、好き嫌いのはっきりとした、彼の『頑固さ』はある意味でエレガンスだと思っています。
悪口を言うほど、嫌いだったり、または憎い相手なら、何も言わずに、その人間のことを忘れたほうがよい」というのです。
そして、彼はもちろん朝のワイドショーのような番組を見ることはありません。

でも、このように、今、エレガンスというテーマで本が出るのも、考えたら、現代が最もエレガンスから遠い時代だからこそ、人々がエレガンスに憧れているのかも分かりません。
本当のエレガンスになれるとき、それは仏教の悟りのような状態なのかもしれません。そう考えると、やはり日々精進とでもいうように、毎日毎日、反省しながらエレガンスに近づこうと努力していることがエレガンスかも。
そして最後のエレガンスの条件。

⑩エレガンスを忘れて、人生を楽しく生きること。

今まで書いてきたことと矛盾するかも分かりませんが、普段の生活の中で、これはエレガントかしら、大丈夫かしらと、考えて生きていては、あなたの生活のすべてが不自然になってしまいます。テーブルマナーと同じで、覚えたら忘れること。そして、どんな規則にも例外があることを思い出してください。 どんな法律にも規則にも、ひとつだけの例外があります。その規則や法律が人間性を踏みにじる時。エレガンスを考えるあまり、自分らしく、人間らしく生きられなければ、それはエレガンスではなくなってしまいます。 あなたが許せないと感じる時、時には声を荒げてしまうこともあるでしょう。
人前でも泣いてしまうほどの時もあるでしょう。 おいしいお料理が出て、そのソースを一滴でも残すのがもったいない時にはマナーやエレガンスをかなぐり捨てて、『ごめんなさいね、あんまりおいしいので』と言って、ソースを飲んだり、パンでお皿の掃除をしたり…実は私にもあります。
フランスのロスチャイルド夫人のエピソードで、シャンペンをもう少し冷やして飲みたい時に、ボーイにスプーンと氷を持ってこさせて、シャンペンに一瞬だけ氷を入れるというのがあります。やってはいけないことを承知していながら、それでも、そんな小さなミステイクをあえてする…。
私はそんな風に素直で自然なエレガンスを目指したく思います。
TEXT BY FRANCOISE MORECHAND フランソワーズ・モレシャン
『エレガンスの条件』(ソニーマガジンズ刊 2004年)収録


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